歴代代表者プロフィール
櫟林の一本道を抜けて 全国の子どもたちに
「生きる力」となる劇を届けます
らくりん座を創り、育んだ人々
浅野歳郎(1898年~1961年)
[経歴]
広島県尾道市木ノ庄町出身。
早稲田大学で坪内逍遥の門下生となり、帝国劇場専属文芸座・脚本部を経て昭和6年アサノ児童演劇学校を創立。
昭和20年 那須塩原市のクヌギ林に移住し日本教育演劇道場を創設、その後劇団らくりん座設立。
全国でもまれな活動をしている劇団はメディアに取り上げられ、全国から演劇指導の要請や合宿に来る演劇関係者が相次いだ。
教育演劇の普及に心血を注いだ。昭和36年 公演先の山前小学校にて急逝。享年62才。
同年11月栃木県より「文化功労賞」授与。
浅野しづ江(1896年~1975年)
[経歴]
宮城県出身。宮城県師範学校卒業後小学校教員を務める。大正11年浅野歳郎と結婚。創設者の演劇芸術に対する夢を公私ともに渡って支え続けた。経済的にもしづ江の教員としての収入が大きな支えになる。
創設者の急逝後、財団法人日本教育演劇道場理事長を引き継ぐ。昭和50年逝去、享年80歳。
古賀萬之助 (1932年~1984年)
[経歴]
福岡県朝倉郡杷木町出身。
当時、斬新なファッション雑誌であった講談社の「若い女性」の記事でらくりん座の存在を知り、それまで演劇の経験は全くなかったが、情熱をたよりにらくりん座に入団する。
昭和36年浅野昤子と結婚し、それまで代表を務めていた昤子が演出家としての仕事、対外的な文化的活動に集中できる環境を作るため、41年に代表となる。新しいジャンルにも次々に挑戦し、ヒット作を生み出して行った。都心の一極集中の傾向にある文化の流れの中で、地方に根ざした独自の文化を持つらくりん座の存在感を増大させる。
昭和59年事故により死亡。享年52歳。
浅野昤子(1924年~2012年)
[経歴]
広島県尾道市生まれ、東京で少女時代を過ごす。東洋音楽学校普通科(現・東京音大)卒。幼いころより父歳郎に師事し演劇を学び、女優を目指す。戦争が広がる中、演劇慰問に回り、21歳になった直後、空襲で瀕死の火傷を負う。
父・浅野歳郎急逝後、劇団の二代目主宰となる。その後夫・古賀萬之助が代表を務めるが、没後再び代表となる。
数々の演劇フェスティバル、イベント、海外公演を成功させ、活躍の場を拡充する。昭和59年より始まったドラマスクールでは、演劇学生、団体の合宿を受け入れ、数多くの演劇人を育てる。
平成24年10月逝去。享年88歳。
[受賞歴]
昭和60年:全児演賞
平成6年:O夫人児童演劇賞
平成7年:栃木県文化功労賞
平成10年:勲五等瑞宝章叙勲