らくりん座の歩み

櫟林の一本道を抜けて 全国の子どもたちに

「生きる力」となる劇を届けます

芸術を中心にした新しい村を作ろう

らくりん座がある栃木県那須塩原市のクヌギ林は、創設者 浅野歳郎が「アサノ児童演劇学校」の林間学校用地として昭和16年当時に準備していました。
戦争が激しくなるなか、浅野は都会を離れ自然の中で、教育演劇の実践・普及をしたいという考えを固めていたのです。
いよいよ移住するという矢先に東京麻布の自宅は直撃弾に見舞われ、次男は爆死、長女も大やけどを負いました。そんな逆境の中、浅野は単身大八車を引いて新天地に向かい8日かかりやっとたどり着きました。昭和20年終戦直前8月10日のことでした。

昭和 6年
麻布時代 アサノ児童演劇学校

劇団らくりん座創設者、浅野歳郎は昭和6年、それまで所属していた帝国劇場専属文芸座をやめ、東京麻布の自宅に「アサノ児童劇学校」を設立した。それは、現在のらくりん座のように児童に見せるために大人が演ずる演劇でなく、児童自身に演劇を教える学校だった。自著によれば「それまでの新劇活動からしりぞき」「教育演劇芸術」という独自の理論の実践研究を目的としたものだった。

アサノ児童演劇学校

「アサノ児童劇学校」について現在のこされた資料は多くないが、「アサノの友五月号」と記された浅野歳郎の自筆による謄写版の学内新聞が当時の演劇学校の様子を生き生きと知らせてくれる。
「標語・コドモの気分を愉快に心身を強くし優しい心を伸ばし正しく強い国民に育てましょう」これがアサノの教育理念であったと思われる。
子どもたちは毎週火曜日と木曜日にそれぞれ組別に、演劇・舞踏・音楽などを勉強し、土曜日は合同の練習日であったようである。

演劇を通しての人間教育を目指す姿勢は当時より現在まで変わっていない。

昭和20年
開拓時代 大八車をひいて新天地へ

「アサノ児童劇学校」の林間学校用地として昭和16年当時準備していた、現在の那須郡塩原町のクヌギ林。そこに「芸術を中心にした新しい村を作ろう」というのが、戦争が激しくなるにつれて浅野歳郎のなかで固まってきた考えであった。
都会を離れ、自然の中、教育演劇の実践・普及を深めるための「新しき村」を作るため、何度か開墾にも通った。いよいよ本格的な移住を考えていた矢先の昭和20年8月、麻布の家は直撃弾にみまわれた。

新居前で浅野家記念写真


次男は爆死、長女も大変な火傷を負うという逆境の中、浅野歳郎は大八車をひいて単身、新天地へ向かった。終戦直前の8月10日のことである。8日目にやっとたどり着き、近所の家のあまやを借り、クヌギ林(=らくりん)の開墾に通った。
同じ年の12月に住居完成、一家で入居したが、翌年4月、取り灰の不始末から出火し、家屋は全焼。地域の人の好意で建てられた藁葺きの小屋にようやく住みながら再び開墾の日々が始まった。

昭和22年
日本教育演劇道場 三島小学校にて

再建の苦闘の中、昭和22年には内村正一氏らとともに、現在まで続く栃木県演劇協議会を結成。9月には県との共催で第一回演劇コンクールを開催。浅野歳郎は栃木県芸術祭演劇部門審査委員に選ばれている。

翌23年9月5日には狩野村三島小学校(現在の西那須野町立三島小学校)内に日本教育演劇学校を開校。昭和23年9月8日付の朝日新聞栃木版によれば、開校式当時の生徒数は70名(小学生を中心とする普通部は女子18・男子1、中学・高校・一般からなる研究部は女子38・男子13)

12月18日には、第一回日本教育演劇学校劇団第一組発表会が開かれている。
また、演劇学校開校以後、県下各地の小中高校より学校演劇指導の求めが浅野歳郎に寄せられるようになり、演劇指導活動は全県下に及んだ。
日本教育演劇道場劇団らくりん座組織への胎動は確実に始まっていた。

劇団創立当時、左が浅野
小道具作りを窓外からのぞく子供達
昭和25年
日本教育演劇道場設立

専門劇団らくりん座設立以前の昭和25年、「日本教育演劇道場」が創設された。県下の高校生や進歩的な県民教育者たちの拠金もあり、8月には、20坪の稽古場(那須野舞殿)が完成した。
夏期休暇の学校演劇部員が次々と合宿に訪れ、本格的な演劇指導が新しい稽古場ではじまった。
演劇・芸術の村づくりの大きな第一歩である。

演劇関係者が続々と訪れた
稽古場に布団を並べての合宿
昭和27年
らくりん座発足 道場一期生入山

昭和27年3月、教育演劇専門家を志望する青年たちを選考。道場一期生として、舞踊、音楽、演劇学科の厳しい訓練を行い、
9月より「劇団らくりん座」として県下小中学校への巡回演劇教室公演がはじめられた。
「昨年、私は一篇の劇作も執筆しなかった。4月15日に、らくりん座の研究生の入山式をした時、この青年たちを教育するのが私の今年の作品である–と心に決めた」

昭和28年1月1日発行の機関誌の冒頭、「今年の念願」と題した文章の中で、浅野歳郎は研究生たちとの居起、研鑽の喜び、未来への希望を語っている。
「今年の私は貧しくとも楽しい気がしている。第二期生も募集したい。何よりも演劇教室巡回用の自動車を買いたい。」
「一期生が卒業したらかれらの宿舎を檪林の間に建てたい。」
はじめはなかなか理解されなかった「演劇教室」も、一歩一歩着実に進んでいく「らくりん座」の努力と、児童たちの熱狂的な支持によって、多くの学校の先生がたの理解を得、28年にはすでに県内115校での公演を実現している。

浅野と一期生 稽古の様子
当時の宿舎

また、9月には、一番の念願であった、日本教育演劇道場の財団法人化がかなった。

昭和30年
オート三輪始動

巡回を開始した当時、劇団員は西那須野駅までの道のりを歩き、列車を利用して公演地へおもむいていた。幾台かの自転車に大道具・小道具・衣裳などをつんで駅まで運んだ。とくに背景やパネルなどは、木製の大きな道具をもち歩くことが出来ないため、布で裏打ちした丈夫な模造紙に描き、組み立て式の木枠や公演先の学校の引き戸にはりつけて利用した。

日々さまざまな場所に出向いて舞台を作り上演する巡回公演の道具の工夫はつづけられたが、昭和29年に購入し1年をかけて修理・改造を行ったオート三輪が30年に始動するに至り、櫟林座の活動範囲は格段に広がった。
「これからは、辺鄙な土地の学校へもどこへでも巡回に行ける」
オーバーヒートのたびに全員で冷却にかからねばならないバタンコだったが、劇団員の喜びはひとしおであった。

愛車のオート三輪
感情移入して、お芝居を楽しむ子供達
昭和31年
郷里・尾道からの招聘
中国地方巡回の始まり

人里を離れた林の中での芸術教育、しかも専門劇団としての活動も着実に行いながらの集団生活。らくりん座の活動は全国でも稀なものであった。その活動が軌道に乗るにつれ、NHK、文化放送ほか、さまざまな雑誌・新聞がらくりん座の活動を全国に報じ始めた。
広島県尾道市吉和町古浜に住む会社員渡辺平八郎さん(当時55歳)が雑誌「若い女性」「婦人生活」の新年号に、らくりん座の生活を伝えるカメラ・ルポを見つけたのは昭和31年の春のことだった。

中国地方巡回公演

主宰の浅野歳郎が郷里尾道の出身であり、しづ江夫人は市内の小学校で教員をしていたことを知るに至り、渡辺さんは、尾道市内の児童劇演出家・飯田吉郎さん、しづ江夫人の尾道教師時代に筒湯小学校でともに勤務していた野本克巳先生(当時山波小学校校長)らと共に劇団らくりん座の尾道招聘を企画した。
浅野歳郎が飯田氏らからの手紙を受け取ったのはその年の四月のことだった。巡回の日程や宿舎、練習場準備もなされた上での懇請に浅野歳郎は14名の劇団員と共に、前年に始動したオート三輪に乗り込み三十余年ぶりの郷里に向かったのである。

以来50年、広島を中心とする中国地方への巡回公演は、毎年欠かさず行われ続けてた。

昭和35年
急逝 公演先 山前小学校にて

昭和35年、巡演数は年々増大し、年間350回以上となっていた。第2号車が始動し、宮城県ほかの東北地方へも巡回の範囲は広がっていた。
主宰者が桃源郷を夢見て植えた70本の桃の木はたわわに実り、那須野が原の櫟林に芽生えた「らくりん座」は、芸術を愛する人々の住む村として、貧しいながらしっかりと根づきつつあった。昭和35年には、広島班養成生を募集し、遠い故郷の地へ新たな萌芽をみようともしていた。
しかし、翌36年1月23日、公演先の山前小学校で公演準備中、浅野歳郎代表が突然の急逝。道場設立からわずか十年目のことである。
演劇の父の突然の訃報は各新聞社により県下に報じられた。
翌月5日、故泉漾太郎氏を委員長とする演劇葬委員会により栃木会館において演劇葬が行われ、追悼公演として、浅野歳郎作「天狗峠」を宇都宮市の演劇グループ「麦の会」が、「神とアダム」をらくりん座が上演した。
その年の11月3日、生涯を通じての演劇文化高揚の功績により、栃木県より「文化功労賞」を授与される。

故人の遺志を受継ぎ、より大きな発展を志しての、劇団員の奮闘がはじまった。

昭和36年
芸術村の灯を見守る

浅野歳郎亡き後、夫人のしづ江が道場の理事長となった。
しづ江の仕事は、偉大な創設者を突然に失ったその後の「らくりん座」を主宰として担うことになった長女・れい子を助け、夫が描いた夢の「芸術村」の灯を消さぬよう、いつも後ろから見守り続けることであった。

文学少女と演劇青年の出会い

大正12年。尾道市筒湯尋常小学校在職当時に書かれたと思われる毛筆書きの履歴書が、浅野しづ江(旧姓岩淵しづ江)の生い立ちを知らせる数少ない資料として残っている。
明治29年1月28日生まれ。大正4年3月27日宮城県女子師範学校第一部を卒業し、同年3月31日宮城県伊具郡大内尋常高等小学校に赴任。大正11年3月29日健康上の理由により仙台市上杉山通尋常小学校を依願退職。その年の12月18日に浅野歳郎と結婚し、翌年3月7日に東京市教員講習所終了し、翌日より東京華尋常小学校で再び教鞭をとっている。
浅野歳郎とは、どのような馴れ初めであったのかを詳しく知る術はないが、文学少女と演劇青年は東京で新しい生活をはじめたと思われる。

浅野歳郎を助け

劇作、詩作をし、新劇活動に精力を注ぎ、次第に独自の演劇理論にもとずいての児童劇学校を創り、芸術の理想を追い求めた夫。しづ江の教員としての収入が歳郎の演劇活動を経済的に支えていたと考えてもよいかもしれない。
一方しづ江自身、教育者として骨の太い信念を持ってもいた。
長女・れい子の記憶の中の母は、貧困に苦しむ地区の学校への赴任を自ら依願し、懸命に勤める人であった。
そのしづ江が教職を辞し、農業訓練の学校に通うようになったのは昭和19年頃のことである。歳郎の中で次第に形を成していった「芸術村」構想の実現を助けるため、自ら農耕の術を学びに内村訓練所と呼ばれる満蒙開拓青年の訓練施設内の学校へ通ったのだ。
戦後の櫟林開拓、家事、らくりん座が軌道に乗るまでの苦難、そのすべてに歳郎を助け、ともに歩んだ。
昭和36年に急逝して後、浅野歳郎は栃木県より文化功労賞を授けられたが、しづ江は亡き夫の代理として授賞式に出席し、夫の功績の認められたことを静かに喜んだ。

学校訪問の日

らくりん座の公演を学校の先生方に直接お会いしてご紹介して歩くのは、劇団の運営、演劇教室の普及に欠くことのできない重要な仕事である。多くの子供たちと演劇を通して出会うためには先生方の理解を得ることが不可欠だからである。
しづ江先生は、それまでは表立って劇団の実務をすることは少なくて、農作業やら経済への配慮やらもっぱら裏方でしたけれど、歳郎先生が亡くなった頃、65歳くらいから学校をまわってらくりん座の仕事を先生方にわかってもらう仕事をしてくれていたのよ。きっと、若いみんながらくりん座を背負っていくのを、心配して、助けようとして、がんばってくれたんでしょうね」
と、浅野昤子はそう回想する。その頃、白髪の上品な婦人が学校をたずね歩いていたことを覚えておられる先生方も多い。

昭和37年
海賊時代

創設者の一周忌を過ぎた頃、劇団員たちのうち何人かは、テレビやラジオ、都会の華やかな劇団にあこがれて櫟林を去っていった。
しかし、全国のらくりん座ファンからは「一日も早い再建を」という沢山の声が届いていた。新しく劇団員を募り、らくりん座の演劇を待つ子どもたちの期待に応えなければならなかった。
父の遺志を継ぎ、劇団らくりん座の主宰となった長女・昤子とその夫古賀萬之助らは劇団の存続のための手段を模索していた。

そんなとき、かつてアサノ児童劇学校の稽古場を使って自立劇団の活動をする演劇青年だった千葉隆三氏が復員し、演劇活動を再開しているとの知らせが届いた。
テレビなどで活躍しながら俳優養成機関の講師などの仕事をしていた千葉氏は、浅野の死とらくりん座の現状を知り、10人の俳優とともに「栃木県人となる覚悟」で巡回公演への友情出演をすることとなった。

また、ラジオの人気番組の脚本家として大衆に親しまれていた花島邦彦氏が、らくりん座の前途を祝って書き下ろした「海賊時代」をらくりん座第1回一般公演として栃木会館ホールで上演。宇都宮演劇鑑賞会など大人の演劇鑑賞団体の協力、総合演劇雑誌テアトロに紹介されるなどの反響を得た。

らくりん座、新しい時代のはじまりであった。

毎日グラフに特集記事が掲載
子供達に見送られて出発する
昭和41年
青年期の劇団らくりん座

昭和41年、劇団再建ようやく落ち着いて頃、古賀萬之助が劇団代表となった、この頃のらくりん座は、青年期を迎えた若者のようにしなやかに俊敏に活動の範囲を広げていった。東北から九州まで巡演の足を伸ばし、年間公演数は300にも及んだ。
これまでレパートリーの多くは作家浅野歳郎の作品であったが、新しいジャンルの作品にも次々挑戦していった。ヘレン・ケラーの物語を脚色した「光への歩み」などはこの時期のヒット作品である。

光への歩み、野外での稽古
昭和48年
ランプ生活の終わり

らくりん座といえばランプ生活というくらい、擽林の奥に電気の光が届くのは遅かった。世の中がどんどん電化されてゆくなかで、電気の光は劇団員の悲願であった。
が、電力会社にとって経済性の伴わない電線の拡張はなかなか叶えられない願いであった。行政などあちこちに請願し、昭和38年にようやく電気が届き、ランプ生活が終わった。
その10年後、昭和48年には念願であった電話が、世間よりはるかに遅れてつけられた。

バスを見送るクヌギの木々

昭和51年
行政の理解・援助

昭和51年、県教育委員会より教育優良団体としてらくりん座が表彰された。その10年前、42年より、県教育委員会の依頼による巡回公演が行われた。普段、演劇に触れる機会が少なく、また劇団としても経済的な理由などからなかなか訪れることのできない山間部などの小規模校への公演が助成によって実現したのである。初年度は一校のみの上演であったが、次第に校数も増え、独自に地歩を固めてきたらくりん座の活動にわずかづつ、行政の援助の手が差し伸べられてといえるかもしれない。それはとりもなおさず、らくりん座の活動が、学校教育の上に果たす役割を県や自治体などが認めてきたことの証であった。その上での教育優良団体賞は地道な活動を続けてきたらくりん座にとって大きな意味のあることであった。

購入直後のトラックと
敷地内でピクニック?

一方、昭和50年代に入り、県の文化行政・文化的催しへの協力も増えてきていた。栃木県芸術祭の30周年記念特別企画合同公演「ファンタジアとちぎ」への全面協力。(演出・浅野昤子、舞台監督・古賀萬之助、出演数名等)県内文化団体各部から合同公演として好評のうちに幕を閉じた「ファンタジアとちぎ」は昭和55年「栃の葉団体ファンタジアとちぎ」として再演された。
また、59年より毎年夏に一般県民を対象に、より広い範囲の人々に演劇体験の機会を提供するために開催されるようになった道場主催のドラマスクールも第2回目より栃木県教育委員会との共催事業として行われることとなった。

下野新聞(1976年)
昭和57年
創立30年 児童演劇の流れの中で

戦後20年を超えた頃から、日本全国で児童のための劇団の活動は盛んになり数多くの劇団が子供のための演劇をもって巡回活動を展開していった。らくりん座もあまたある児童劇団のひとつとして認識されるようになった。
しかし、すでに都心への一極集中の様相を見せていた日本の文化の流れのなかで、栃木県で生まれ地域に根ざした全く独自の文化、独自の演劇を創りながら、児童演劇界全体の動きを見極めつつ前進し、昭和57年、らくりん座が創立30年を迎えた。この年、下野新聞より下野県民賞を授与。また、創立30周年を記念しての感謝公演「吉四六昇天」を無料上演した。

吉四六昇天の一幕
開演を待つ子どもたち、当初らくりん座は漢字表記だった
昭和60年
浅野昤子と劇団らくりん座

浅野昤子は、父の死後2代目主宰として劇団を率いることとなり、古賀萬之助が代表になるとその任を退いたが、不慮の事故により古賀が亡くなったあと、再び、劇団らくりん座の代表となった。
浅野昤子と劇団らくりん座は歳郎の夢、古賀の意思を全うすべく歩み始めた。子どものために本当によい芝居をたゆまずつくり、届け続けること。演劇を学ぶことを希望する人々のよりよい助けとなること。そのためのらくりん座、演劇道場を発展させてゆくこと。そして、劇団員が安心して生活しながらよりよい仕事をつづけてゆくことを目指して。

昭和60年、10月2日から28日まで、東京千石にあった三百人劇場で「文化庁主催第1回地域劇団東京演劇祭」が開催された。
「劇団や演劇活動が東京に集中し、それが演劇の発展を逆に阻害しているのではないか」との反省から財団法人現代演劇協会が開催したその演劇祭に代表7劇団の1つとして選ばれ、らくりん座が参加、「ゆきと鬼んべ」を上演した。

稽古をつける浅野昤子

中央から地方に一方的に文化が流れる現状の中で、地方発の独自の文化・演劇をつくり続けてきたらくりん座がその演劇祭に参加したことは劇団にとっても意義深いことであった。ちょうど古賀の一周忌にあたる日、3日間の公演は好評のうちに幕を閉じた。

昭和60年〜平成
様々な活躍の場

現在に至るまで、らくりん座もその劇団員も様々な活動の機会を得て、劇団の新しい時代を切り開いていっている。

昭和60年に新潟県佐渡島で開催された「第一回全日本子どものための舞台芸術大祭典」、昭和63年に小豆島演劇祭、平成7年「児演協20周年記念児童青少年演劇フェスティバル」など、全国の児童演劇劇団が児童文化の向上のために催した様々なイベントに積極的に参加。
県内においては、平成元年栃木県企画制作による「下野物語」を県内10ホールにて上演。同年下野新聞創刊105周年記念事業「らくりん座親子ふれあい劇場」。那須野が原ハーモニーホールでの一般公演。三島ホール主催の「夏の子ども劇場」公演など、各種団体からの委託による一般公演。自主公演を行う。

平成8年10月には、ロシア・オムスク日本文化と芸術のフェスティバルに「ゆきと鬼んべ」で参加。初の海外公演も行った。

メイクは役になりきるための重要アイテム
バスは、今日も全国を巡っている
現在
誰もが演劇を学べる道場として

敷地内にある道場「那須野舞殿」では高校生・一般を対象としたドラマスクール、子どもたちを対象とした「子ども塾」の開催など、擽林で繰り広げられる演劇体験・表現学習の場として長年にわたり続いた。
また、様々な表現活動をしている団体がらくりん座を見学に訪れ学んでいったりした。
一方、演出・指導・講師の派遣も行っている。

道場の入り口に掲げられた銘木看板
擽林に佇む演劇道場「那須野舞殿」

日本教育演劇道場は演劇を学ぶことを望む人々みんなの道場として、これから先も環境作りに力を入れてゆきたい。